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アイネクライネ。
は珍しく悩んでいた。 お仕えしている姫様は江戸での生活を満喫しているように見えたので安心している。 なので悩みは姫様の事ではない。 自分自身の事だ。 「………」 目の前のことには腕を組み口を閉ざす。 まだまだ残暑が残る中、早くこの場から立ち去りたいと思っている。 だが、そう簡単にはいかないようだ。 【7】 春の話し相手として、徳川家康に仕える井伊直政の義母である直虎が都合が合えば会いに来る。 春は直虎が来るのが嬉しいようで、その時間を待ち遠しいと感じるくらいだと言っていた。 それはにしてみれば直政に頼んで良かったと思えることだ。 春の周りには以前北条家に仕えていた人たちが戻って来た。 以前とすべてが同じとはいかないが、多少はへの負担も減ったし、春の気持ち的にも余裕ができたはずだ。 その対価ではないか、直政からの頼み事。 義母へ菓子を拵えてくれないか?という事を引き受けた。 どっちが得をしたかなどとは考えないが、この話は直政にとっても喜ばしい結果だった。 だが。 今、の目の前に腰を下ろしている直政からの頼み事には簡単に頷く気にはなれなかった。 「そう怖い顔をしないでもらいたいのだが…」 「別に怖がってはいないだろうが、直政は」 直政は井伊の赤鬼と言う呼び名があるそうだ。 その赤鬼には男が不機嫌な面を見せたところでどうってことないだろう。 赤鬼の赤は自身の着ている鎧から来ているらしいが。 その赤を思うと、京にいる親友幸村を思い出す。 元々心配をかけるような奴ではないし、今は甲斐もそっちにいる。 きっとくのいちと毎日くだらないやり取りをして、幸村を困らせているだろうとは思う。 「何がそんなに嫌なのか聞きたいぐらいだな」 「逆に聞く。なぜそこまで必要とされているのかわからないな、俺は」 「それは家康様が」 「家康様の命令には絶対か?つか、こっちの気持ちはどうでもいいのか?」 珍しく低い声で相手をけん制するような物言いをしてしまう。 「だが、お前にとっても悪い話はないと思うが?」 「………」 そして黙る。 先程からこれの繰り返しだ。 「あら、直政さん。いらしていたのですね」 春が室に顔を出す。 春が目にしたのは向かい合って座っている男二人。 和気藹々とは程遠い空気を醸し出している。 「春様。お邪魔しております」 「に用事だったのね。邪魔してごめんなさい」 「いえ」 客人の前だと言うのに、機嫌の悪さを隠そうとしないに春は苦笑してしまう。 何があったのか聞くべきか? 直政の為にも助け船を出してやるべきか春でも迷う。 「姫様。何か用があるんですか?」 「え?えぇ…まぁ一応ね」 「なんですか?」 客の用件などどうでもいいとばかりには春に問うた。 いくら気安い態度で良いと言われても、相手は徳川家でも重要な家臣じゃないか。 流石にどうかと思ったが。 「あのね。今度直虎さんと紅葉狩りにでも行こうかって話になってね。その時ににお弁当とお菓子を拵えてもらおうかという…あら」 の眉間が一層深くなった。 どうやら直政の持ってきた話もそれに近いものなのか。 直政の助けになればと思ったが失敗してしまったらしい。 けど、春は気にせず話を続ける。 「なぁに?その顔は」 「いえ、すみません。けど姫様。紅葉狩りとは具体的にどの辺に行くおつもりだったんですか?」 「まだ深く考えていないわよ。遠出はできないのはわかっているし…あ、もちろんも行くのよ?」 「は?」 「当たり前じゃない。あなたは私のお供なんだから」 今でこそ他にもそう言う者はいるはずだなのだが。 「あなたの性格じゃ、お弁当作って渡して終わり。ではないでしょう?」 「ま、まぁ…そうっすね…」 北条家でもこういう行事では、は参加していたのだから。 「じゃあ、話がまとまったら改めてお願いするけどいいかしら?」 「嫌だと言っても、無駄なんでしょうね」 「うふふ。嫌だなんて言わないわよね?は」 は嘆息した。 春は直政の方に顔を向ける。 「直政さんはにどういう用事でいらしたの?」 本来は聞いてはいけないものだろうが?直政の助けになればと思って春は問うてみた。 直政は、の春には逆らえないような姿に驚きつつも。 それでも嫌だと言う気持ちを隠しもしない春との間柄に改めて北条家は他所とは違うのだなと感じる。 「家康様が、に店を出さぬか?と援助は惜しまないと仰り」 「あら、すごいことじゃない。ねえ?」 「あーそうですね、すごいですね」 「もう、全然すごそうに思っていないでしょ?」 話はこうだ。 以前から巷で有名な美味い菓子の存在。 だが、気まぐれな職人のお蔭で中々お目にかかることはない。 町の人達だけでなく、家康もそれが勿体ないと考えていた。 ならば、家康が援助をし店を開いて貰おうとしているのだ。 町の人たちの反応からして、すぐに軌道に乗るだろう。 その話を主である春を通さず直接に伝えてきたのだ。 直政にしてみれば、の気分次第であり、理由は知らぬが本人にその気が全くないことを知ってしまっているので、春ではなく本人にしてみたのだ。 春を通せば、ある意味決定になってしまうかもと思って。 だが、春も最終的には自身に決めさせるだろうとは思うが。 「普通はない話だ。こんな好条件は滅多にないぞ」 何も後ろ盾のない青年の為に、家康が援助を申し出ると言うのだ。 「そうだろうな、ありがたい話だと思うよ…けどな…」 は頭をかくも、すぐさま立ち上がる。 「姫様、そろそろ昼餉にしますか?用意しますよ」 「え、ええ。お願いするわ。直政さんもご一緒にどうぞ」 「あ、いえ…俺はもう戻りますので。またの機会に」 直政は春に頭を下げ、立ち上がる。 また来るとに告げて屋敷を出た。 「何を迷う必要があるのだろうか?」 息子の何気ない呟きを直虎は聞いた。 何のことだと問えば、家康が申し出たへの援助の話だ。 「さんの気分次第の店。でしたよね」 「義母上からも言ってもらえませんか?家康様はぜひと…」 「普通ならば家康様がさんを呼び出し命じても可笑しくないですよね…」 「はい。一応、家康様なりに猶予を与えているのだと」 秀吉の名代として、この関東を治める大大名徳川家康。 彼ならば、命じれば簡単にできることをあえて相手の意思を尊重してくれている。 家康が納得できる理由でなければきっとこの話は終わらないだろう。 あれからそんなに間もなく、直虎は北条家の屋敷を訪れていた。 いつもの春との時間を過ごすためだ。 先日どこか紅葉狩りにでも行こうという話になり大変盛り上がった。 今日もきっとその話の続きになりそうだが。 「ごめんなさい。少しだけ待ってもらえるといいのだけど…」 春は目を通さねばならない書簡があるそうだ。 直虎としてはまた別日にすれば良い話だが、春は直虎に居てほしい様だ。 直虎は春が良いならばと一室で待たせてもらうことにした。 「あなたも商売あがったりだ」 「さん!」 直虎は庭を眺めていたのだが、茶と菓子をが出してくれた。 「そのようには思っていません、私は」 「そうですか」 は春が来るまで、直虎の相手をしようと思って顔を出してくれたらしい。 基本的に直虎がここへ来る目的は春なのだから。 といる時間はそんなに多くない。 二人きりなど滅多にないので少し緊張してしまう。 いや、初めて会った日に二人きりではあったが。 「さん」 「ん?」 「小田原では助けてくださり、ありがとうございました」 「へ?」 直虎は深々と頭を下げた。 は突然なんだ?と目を丸くしている。 「はぁ〜やっと言えました。ずっとさんにお礼を言いたくて」 「………」 「忘れてしまいましたか?獣用の罠に誤って引っかかった私を」 「いや、忘れていないけど」 直虎としてはちゃんとした形で礼を言いたかったのだ。 「さんのお蔭で直政に会えましたが、あの後こっぴどく叱られてしまいました」 「なんか想像つきますね、その光景が」 「お、お恥ずかしいです」 「そっか…あの時、無茶してでも会いたかった人って直政だったんだ」 「う……その言い方はちょっと」 「実際そうでしょう?」 「はぅ〜」 顔から火が出るほど恥ずかしいとはこの事かと、直虎は顔を赤くしてしまう。 確かに息子を心配して会いに行ったのだが。 何故だろう、に改めて言われてしまうと色々と否定してしまいたくなる。 だけど、こうしてと話をできるのは嬉しい。 初対面時に見せてくれた穏やか笑みをまた向けてくれている。 滅多にない時間だ。 春には申し訳ないが、もう少しだけこうして何気ない時間を過ごしていたい。 ふと、息子が呟いていた事を思い出し、口にしてしまった。 「さんはお店を出すのは嫌なんですか?」 「……直政に理由を聞いて来いとでも言われました?」 穏やかな笑みを一瞬にして自分で壊してしまった。 「ち、違います!そうではなく…町の人もさんのお菓子を楽しみにしてるから…」 直虎もそう思う一人だ。 けど、自分は春と一緒にいると無条件で食べる事ができる。 それは先日春とも話したことだ。 「けど…春さんも仰っていました。さんはもう店をやらないだろうって」 今回、家康からの申し出は悪い話ではない。 直政が言うように何を渋る必要があるのだろうか? そう直虎の顔にも出ていたようで、は少しだけ視線を下げ小さく息を吐いた。 「俺は、北条家の料理番ではあったけど、菓子職人ではないんですよ」 「え?けど」 「北条の人達の為に、食事は用意します、時間があれば菓子も作ります」 それは今もそうであって、店を出す出さないと何が違うのだろうか? 「出す相手が違う」 「それって」 「ここで店を出していたのは、あくまで生活の為のようなものであり、今はその必要はないんですよ」 春の生活に関しては、それこそ家康のお蔭でなんとかなっている。 春も徳川家の家臣の一人として働いているわけだし。 「俺は不特定多数の誰かに作る飯より、顔の知っている相手に作る方がいいんです」 の作った菓子は美味い。 見知らぬ人からそれを耳にする事は何度もあった。 普通に考えれば、それは嬉しい出来事なのだろうが、は違うらしい。 「俺は聖人君子じゃない。自分の身近な人が喜んでくれればそれでいい。それに不定期でやっていたからなんとなかっていたけど、これを毎日なんてのは無理だ」 「身近な人…」 「今までがそうだったから。お館様や奥方様、政兄、照兄、姫様…甲斐が、喜んでくれたから…それで十分だった」 「そうなのですね」 にとって北条家は相当大事な存在だったようだ。 「あぁ、今は直政やあなたも食べてくれるし、満足でしょう、それで」 「わ、私は…少し皆さんに申し訳ないと思ってしまうくらいで」 「なんだ、それ」 寂し気だったが声を出して笑った。 「さん。ご自分の正直なお気持ちを直政に話してください。きっとあの子はあなたに無理強いはしないです。けど、理由がわからないままではどうにもなりませんから」 の考えは家康から見れば我がままだろうか? けど、家族を大事にしている想いを、今までの思い出を思えば。 直虎はこのままでいいなと思ったから。 「直虎さん、待たせてしまってごめんなさい」 春が小走りで駆けてきた。 「春さん。いえ、さんとお話していたので時間は感じませんでしたよ」 「そう?」 は立ち上がり室から出ていく。 春の分を用意するからと。 春は直虎の隣に腰を下ろした。 「とどんな話をしていたの?」 「さんが北条家の皆さんを大事に思っているという話ですよ」 「あのが素直にそんな事を言うのかしら?」 付き合いの長い春でも疑ってしまうようだ。 「春さん、それがひどいですよ?」 「うふふ。ごめんなさい。でも、が素直になるのは大概お父様か、甲斐ぐらいだったから」 「そうなんですか」 軽い気持ちで返事をした直虎だったが、も口にしていた「甲斐」と言う人物。 何故だがとても気になった。 19/12/31再UP |