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君を待つ、桜のキオク。
前田慶次から信玄に宛てられた文には、幸村の記憶を取り戻す為に奥州へ来ないか? そう言う内容だった。 奥州には幸村にとって特別な存在がいる。 好敵手。と一言で言い表すのには難しい存在。 互いの立場の差はあれど、戦場に出ればその立場を忘れてしまうほど互いの血が滾るほどだ。 時には敵対し、時には共闘する。 きっと幸村もその好敵手に会えば、記憶を取り戻すきっかけくらいにはなるだろうと。 その相手が若くして奥州をまとめる伊達政宗だった。 すがるわけでもないが、せっかくの慶次の申し出。 多少の気分転換にもなるだろうからと、佐助を共につけ、奥州への旅を信玄は認めたのだ。 佐助だけでなく、も一緒に。 信玄は甲斐から出たことがないにもいい経験になるだろうと思って同行を頼んだのだ。 半分は、経験だけでなく、幸村の記憶喪失で随分と悩んでいたようだから。 これもまた、気分転換にと気を使った。 結果は想像以上だった。 政宗との仕合。 最初は及び腰だった幸村も、政宗の闘志に引き込まれた。 段々と漲る、滾るものに胸を躍らせ、互いの渾身の一撃を出したときがきっかけか。 幸村は記憶を取り戻していた。 なのに…。 「そ、そうでござるか!?その、それがしよくわからないでござるよ、殿」 その一言に、は凍りついた。 「殿」 変わらない呼び方。 政宗に小十郎。 佐助に慶次。 その他いろいろな事を思いだして言葉にするのに。 の事だけはまったく変わらず…。 「ちゃん…」 「さす、け…さん…」 幸村をまっすぐ見ることができなくて、は稽古場から飛び出した。 庭先で一人たたずんでいたに佐助が心配そうに声をかける。 佐助の声に振り返った。 その顔は当然のように泣く一歩手前で。 泣かないように必死で耐えていた。 「…なんで、かな…なんで、私だけ?………私の事だけ思い出してもらえないの?」 「それは…」 佐助にも答えようがない。 あれは幸村の冗談。 ちょっとからかっただけの、の反応を見たかっただけなんだ。 な、事ならば随分性質の悪いものだが。 生憎幸村にそんな手の込んだことができるはずがない。 もとより嘘の吐ける性格ではないのだ。 「でも…仕方ないよね…幸村君に、私、ひどいことしたもの…」 「ちゃん。それは違うって!」 「でも!私だけ、思い出してもらえないんだよ!?」 ボロッと大粒の涙がの頬を伝った。 はっきり自分で言葉にしたことで、認めざるをえなくて。 我慢していたものがぷっつりと切れた。 「ちゃん」 「無理しない、とか…焦らない、とか…考えていたけど…やっぱり、辛いよ…」 は佐助の胸に飛び込む。 佐助は幼子をあやすようにの背中を優しく撫でた。 【9】 「、殿…」 佐助に休んでいてくれ。などと言われてもが気になってそれどころじゃなかった幸村。 佐助の後を追いかければ、は佐助の前で泣いている。 「………それがし……」 その光景がひどく苦しく映る。 自分がを苦しめたこと、佐助に泣きつくの姿に胸が痛い。 「幸村。今は忍の兄さんに任せておけって」 慶次は幸村とを両方心配してだろう、やはり着いてきていた。 「慶次殿…今のそれがしは、以前のそれがしと違うのでござるか?」 記憶はなくても幸村は幸村だ。 そう周囲の人間に言われた。 最初は戸惑い、親しい人とのやり取りに苛つくことがあっても、なんとかここまで来れた。 そして思い出せた。 なのに。 「それって、に関してだろ?」 以外のことはしっかり記憶が戻っているのだから。 慶次は幸村をその場から連れ出す。 佐助は気づいているかもしれないが、には少し落ち着く時間が必要だ。 いや、幸村にも必要だろう。 「記憶を取り戻した。と言う感覚はよくわからないでござる。 ただ、佐助や慶次殿、政宗殿と交わした言葉、出来事など思い出せるのに、殿とのことだけ…一緒に茶屋で団子を食ったとか、散歩をしたとか…それぐらいしか…」 思い出せない。 幸村はしょんぼりと肩を落とす。 小十郎が案内してくれた室で、幸村は正座し慶次に向かって、本当に思った、感じたことを話した。 「だが、それは…」 「ついさっきまでの記憶だよな。ここ最近の…」 それはきっとが望んでいる記憶ではない。 「それがしと殿は…どんな風だったのでござろうか?」 幸村は膝の上で悔しそうに拳を握る。 「そこだけ、ぼんやりしていて…殿ともきっと楽しく過ごしたのだろうと…けど、思い出せなくて…」 「まぁ…なんつーか…俺もなんて言えばわかんねぇけどな…」 慶次は頭を掻く。 「これ以上、殿を泣かせたくないでござる」 「…………多分さ……」 慶次は胡坐を掻いており、その膝で肘をついている。 そしてにんまりと笑って幸村を見ていた。 「を泣かせたくないって…の事を覚えているお前もそう言うと思うぞ」 「は?」 「あー…なんつーか…記憶を失くす前のお前もを大事に想ってるって話」 「そ、そうでござるか?」 「そうだよ。幸村はに恋してんだからさ」 「こ、ここここ恋ぃぃぃ!!!?」 後ろに飛び跳ねる幸村。 襖に激突しそうな勢いだ。 「今のお前もそうだろ?まぁ…ほぼ記憶が戻っているから大差ねぇか」 慶次の言葉に幸村は動揺を隠せない。 に恋をしているだと? そうなのか?と自問自答を繰り返してしまう。 「ゆっくりでいいから、じっくり考えてみろよ。今、幸村が覚えているだけのことをさ」 「今?」 「だって、のことを思いだせないんじゃ、今の分しかねぇだろ?」 確かに、一緒に過ごした時間はある。 幸村は目を閉じそれを思い出してみる。 (……目が覚めてから…見た殿の顔は嬉しそうであったが、どこか泣きそうで…) 幸村が記憶喪失だとわかると、苦しそうな顔しか見せなくて。 一生懸命に自分の記憶を取り戻そうとしてくれるも、距離を置かれているようで幸村は寂しさを感じて。 時折佐助と一緒に居る姿が面白くなくて。 と一緒に居るのが楽しくて。 記憶喪失になる前の自分と、の関係がひどく気になって…。 (ずっと…ずっと…殿のことばかり考えている…) 自分と一緒に甘味を食べてくれるのが嬉しくて。 自分と一緒に外へ出歩くのが嬉しくて。 自分と一緒に笑ってくれるのが嬉しくて。 あぁ、これが…慶次の言う恋なのだろうか? 好きと言う気持ち。 にそれを向けるのは、嫌な気分ではない。 (それがし…殿を…) 否定する気はない。 を想うとほんのりと胸が温かくなる。 (殿が、大好きだ) *** 幸村とどんな顔をして会えばいいのかわからない。 それがの率直に思ったことだ。 周りとは記憶が戻りきっと楽しげなのだろうが、自分だけそうでなくて。 幸村が根に持つような性格ではないのはわかっている。 わかっているけど、自分の事だけ思い出してもらえないのは辛くて。 笑うに笑えない。 佐助の前で思い切り泣いて。 泣いても、解決策などなくて、どうしたらいいのかわからなくて。 結局、昨日、今日と幸村とまともに顔を合わせていない。 やることもないので一人、館内をふらふらしていた。 「暇そうだな」 時折立ち止まっては館内で働く人をぼんやり見ていた。 そんなに声をかけた者がいた。 「あ…す、すみません。勝手に出歩いて…」 「いや、別に気にしなくていい。あんたが客人であるのはちゃんと伝えてある。好きに過ごせばいいさ」 館の主、政宗だ。 出迎えられた時は道着姿だったが、あれから時間も経っている。 薄手の着物を一枚着流している。 「…………」 会話が続かない。 と言うより、政宗に対し話す事がない。 初めて会ったばかりの人で、彼は自分の存在など気に留めることもないし、知りもしないはずだ。 政宗は幸村にとって特別な存在だから。 「詳しいことは知らねぇが、あんた…真田幸村の女か?」 「お、女って…違います…そんな…」 そう見られてもおかしくないかもしれないが、生憎そんな関係じゃない。 「じゃあなんだ?」 「なんだって………なんだろう…と、友達…かな…」 信玄に拾われたようなもので、幸村の世話になっている。 「お館様に命じられて、幸村君の屋敷に住まわせてもらって…」 信玄に捧げる忠誠心は強く、きっと信玄に命じられたから、今のような生活ができて…。 それを考えて胸が痛くなった。 信玄に言われたから。命じられたから。 信玄が絡まなければ、幸村と自分ってなんだろうか? 小十郎に対して佐助は自分を「信玄の娘」のような存在、「幸村の家族」でいいんじゃないか?と言ってくれた。 けど、そうなのか? (なんで、それを考えると苦しいんだろう…) 記憶喪失になる前の幸村と自分の関係ってどんなだった? 素直に笑って怒って泣いて、遠慮がなくて。 でも、今は記憶喪失になった幸村に対し、それを焦る気持ちを抑えて接しようとしていても、どこかで引け目を感じてしまっているようだ。 「どうする?」 「え?」 「真田がここへ来る目的は、あいつの記憶が戻る可能性に賭けたことだろう? 実際、俺とやりあって記憶が戻ったからな。だったら、ここに居る理由がねぇだろ?」 「…そうですね…」 「あんたの記憶に関しちゃ、俺にはどうにもできねぇし、関係ねぇ話だ」 これは早く出ていけ。と言われているのだろうか? だが目的は達成されたようなものだ。 幸村が今後信玄の為にとなるなら、自分の事だけ思い出さなくてもなんの支障もないから…。 「猿飛の奴もそろそろ甲斐へ戻るようなことを言っていたしな」 「ですよね…」 甲斐へ戻る際…。幸村と一緒に居ることに耐えられるだろうか? 行きと同じように佐助の後ろに居るだけならなんとか…。 慶次も一緒ならば、多少気はまぎれるような…。 「あんた…しばらくここに居るか?」 意外な政宗の申し出。 は驚いて政宗の顔をじっと見てしまう。 「しばらく真田と距離でも置くか。って話だ。俺は別にかまわないぜ、あんたが何日ここに居ようが」 「…………」 これは政宗なりの気遣いなのだろうか? 幸村がを思い出せなくても、自分には無関係だと言い切っておいて。 「それ…少しいいな…って思っちゃうじゃないですか」 幸村と一緒に居るのが辛いと思えてしまっている今だから、余計に。 は眉根を寄せて笑う。 ただ笑顔には到底見えない。 泣きそうになるのを我慢するために笑みを作っただけの。 「ただよ…」 「?」 「確かに、自分を思い出せてもらえねぇのは辛いし、悲しいことだろう。俺の場合ムカついたがな」 初対面の時でも見せなかった幸村のぼんやりした表情にイラッとしたそうだ。 「俺よりもあいつとの付き合いが長いあんたは特にそうだろうな。辛さがある。 けど…思い出せないものは仕方ねぇ、いつ思い出すかなんて保証もねぇ。明日かもしれねぇし、数年後、数十年後…もしかしたら一生思い出さないかもしれねぇ」 一生…か。 有り得る話だ。 にもそれはわかる。 「だったら、今の状態から再スタートすればいいんじゃねぇのか?」 「再スタート?」 政宗が不敵に笑う。 じっくり顔を見ることができた今。 改めて、伊達政宗と言う青年の面構えの良さに見惚れてしまいそうになる。 「詳しい話はしらねぇってさっきは言ったが…多少は聞いちまった。あんたが気にするのもわかるけどな」 話したのは佐助だろうか。 幸村が記憶喪失になった経緯だろう。 「命があっただけいいんじゃねぇのか?以前の関係とか思い出とか、比べちまうかもしれねぇが。 あんたがそれで良ければ、これからの真田との関係を築いて行けばいいだろうって話だ」 あぁそうか。 結局、過去に一番こだわっていたのは自分。 これからの事を考えているようで、狭まった視野でしか考えていなかったのだ。 梅に言われた時と同じじゃないか、これは。 同じことを繰り返そうとしていた自分に呆れてしまう。 そもそも幸村と出会った時、自分と幸村の関係はゼロからだった。 そこから始まったのだ、もう一度そこから始めればいいのだ。 「ありがとうございます。政宗様」 「あー…政宗でいい。けど、しばらくここに居残る話は別だ。好きにしな。 滞在中は俺自ら城下を案内してやってもいいぜ」 「それは…うん、心惹かれちゃうお誘いですね」 初めて政宗に向けて素直に笑顔を見せることができたような気がした。 19/12/30再UP |