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3年魏組張遼先生
のどかな、午後。 そんな単語が良く似合う日だった。 張遼から、正式に合肥への出向の話を聞いた。 の家庭教師という役目もそろそろ終わろうとしていた。 「もっと色々な事を教えて差し上げたかったのですが、こればかりはどうしようもありませんからね」 張遼は微苦笑する。 は机の上のものを片付けながら、話を聞いていた。 今日の授業を終えたら、あと何回しかこうした時間は過ごせないのだろうか? 「私も、残念です…」 は少し俯き加減で答えた。 「そうですか?煩いのがいなくなって清清するとか思ってませんか?」 「そんな事思いませんよ、酷いなぁ遼さんはぁ」 軽い冗談のつもりで言ったのに、は力なく笑っている。 「………」 いつもみたいな元気のないを見るのは初めてなので少し戸惑う。 とりあえず、自分がいなくなる事をこの少女は寂しがってくれているのかと思うことにする。 「それでですね、私が教えられるのはあと一回だけですので」 「え、それだけ!?」 「すぐには合肥へ行きませんが、私の仕事の都合で、引継ぎとが色々あって」 「そ、そうですよね。遼さんのお仕事はそっちの方が本業だし…わかりました」 「すみませんね」 「明日ですよね」 明日で最後だ。 は頷く。 「じゃあ、今日はこれまでと言うことで」 「はい、ありがとうございました」 「では、殿。また明日」 「はい、また明日」 張遼は書物などを持って部屋を出て行く。 は張遼に手を振ってその背を見送る。 「明日で最後なんだ、明日で」 張遼の口からちゃんと聞けたのはいいが、噂で聞くよりやはりショックだった。 知っていてもこうなのだから、知らなかった場合はどうしてただろうか。 今でさえ、泣きそうなのに。 でも、いい生徒でいたいから、我が侭を言いたくないから泣くのも我慢した。 一人になったら、堪えていたものがプッツリ切れた。 「……遼さん」 口元が震えて、本当は声を出して泣きたかった。 でも、部屋の前を通るほかの人に聞かれたら嫌だから、それすらも我慢しようとする。 はうずまり膝に顔を埋める。 「…っく…」 そこへ運悪く、入ってきた者がいた。 の授業が終わったのを知って夏侯惇が入ってきた。 「、終わったそうだな。これから…どうした?」 うずくまっているを見て慌てて駆け寄る夏侯惇。 「どうした?どこか具合でも悪いのか?」 「と、惇兄…なんでも、ない、から…」 顔を上げずとも、が泣いているのがわかった。 「なんでもないわけなかろうが。何があった?」 夏侯惇の問いには首を振るばかり。 「馬鹿が、黙ってないでちゃんと言え。お前が泣くなどよほどの事だ」 「………」 「俺には言えんようなことなのか?」 がここに来てから本当の兄のように接してくれる夏侯惇。 彼が自分をとても心配してくれるのが良くわかる。 甘えてもいいのだろうか? でも、こればかりは夏侯惇だってどうにもできない。 「……張遼か?」 ここはが勉強のために使用されている部屋。 しかいないってことは張遼と何かあったとしか思えない。 「喧嘩するほど、奴は大人気ない奴ではないしな…聞くしかないか」 張遼に? それを聞いては顔を上げた。 「駄目!」 「?」 「遼さんに言っちゃ駄目…明日で最後だから、我慢するから」 「何をだ?」 「がまん、するの……ふっ……」 そう口にしたら、大粒の涙が零れた。 夏侯惇にも余計な心配をかけるから、泣くのをやめなきゃと思うのだが、涙が止まらない。 「惇兄!」 もう我慢できなくて、は夏侯惇に抱きついて声を出して泣き出した。 「……」 いつも曹操と子どもみたいな悪戯する。 その様子を『子どもみたい』と思うが、今のほうが本当の子どものようだった。 訳も言わずにただただ泣いて。 「気が済むまで泣け。しょうがない奴だ」 落ち着いたが話してくれた。 張遼が合肥に行くのは嫌だけど、離れたくないけど、最後までいい生徒でいようって決めた事を。 それを聞いた夏侯惇は 「馬鹿が!嫌なら何で言わんのだ」 「だ、だって。私が我が侭言ったって何も変わらないもん」 確かに人事は変わらない。 だけど、言わなきゃ、何も変わらないことだってある。 「決定済みだし…」 「まぁな」 今更すぎて変更はできないだろうに。 あそこが重要な拠点であるのは夏侯惇にもわかっているから、張遼が適任であるとも思うし。 「それでいいのか?お前は何も言わずに見送るだけで」 「言えないよ、遼さんから見れば私はまだまだガキだし」 「そんな事はないだろう。と言うか、そんな風に思っているならけしからんな」 「は?」 「俺の大事な妹を泣かすなど、許せんな。振りでもしたらいくら張遼と言えどもただではおかんぞ」 合肥まで行って何かしでかしそうだ、この人。 でも、妹って。 夏侯惇に自分を家族って思えてもらえて嬉しい。 「それにさ、今何か言ったら遼さん困るかなって…だったら、いっぱい勉強して遼さんに似合うような素敵な人になってからでもいいかなって。あは、なれたらだけど」 その間、張遼が別の人を娶ったりする可能性もあるから、無駄に終わるかもしれないが。 「先は長いけどね」 「なれるだろう、お前なら」 「なれるかな?」 「あぁ。逆にあいつが後悔するぐらいになってやれ」 「あはは」 夏侯惇は泣き止み笑みを浮かべるようになったに安堵する。 ただ、いい子でいようとするから、極限まで達したらどうなるか心配だった。 「もっと我が侭言ってもいいんだぞ」 「惇兄」 「俺はその方が嬉しいな。我慢されるよりな」 「………」 優しくの頭を撫でる夏侯惇。 「ありがと、惇兄」 「いや、別にいい。にしても複雑だな」 「何が?」 「お前のためにも奴には残ってもらいたいとは思うが、軍のことを考えるとな」 流石の夏候惇でも私情を交えるわけにはいかないだろう。 「あ、あは…いや、それは、あの…」 「どうしたら良いものかな」 「じゃあ、私が合肥に一緒に行くのは?」 「却下」 「だよね……じゃあ、遼さんの変わりに惇兄が行ってきて」 「…それはそれで嫌だな」 「あははは」 夏候惇のおかげで少しは気が楽になった。 *** 「さて、今日はこの辺までにしておきましょうか」 色々なもので山積みになった机を見て張遼は溜め息が出る。 でも、仕事の引継ぎでこんなにも大変で面倒なことを考えると、降将の自分はかなり信用され任されていたのだと実感する。 合肥行きも左遷ではないわけだし。 「張遼いるか?」 珍しくいきなり執務室に入ってきた夏侯惇。 いつもなら扉を軽く叩いてから確認するのに。 「どうかされましたか?夏侯惇殿」 「いや…ふっ、すごい量だな」 「えぇ、参りましたよ。意外にやることが多くて」 夏侯惇は机の上を見て苦笑する。 そしてそのまま壁際の長椅子へと腰を下ろした。 「邪魔したようだな。すまん」 「いえ、今日はもう終わりにしようかと思っていたので、して、何用ですかな?」 「たいした用ではないがな…明日での教師役を終えるそうだな」 「はい、もう空いてる時間もほとんどないので」 「……後任はどうする?」 「あぁ、そうでしたね。殿がお決めになれば宜しいのでは?私の時もそうでしたし」 いきなり、『お主がやれ』だったから、アレには驚いた。 自分に教師の役目など務まるのか不安だったし。 「孟徳か…あいつ考えてないぞ、多分」 「そうなのですか?」 「お前なら誰を推薦する?お前が言えばそいつになるだろ」 「そうですね…殿の性格からして少し厳しい方の方が宜しいかと」 最近のならば、問題はないが。もしかするとってこともあるし。 「だとすると、徐晃殿は無理ですな。司馬懿殿は、執務が忙しすぎて無理でしょうし」 「文官の誰かで良いのではないか?」 「多分無理でしょうね。私でさえ、最初は手こずりましたから」 「ほぅ」 「…案外、曹仁殿か張コウ殿などが適任かもしれませんね」 「また極端な組み合わせだな」 夏侯惇は笑い、張遼もつられた。 相性のことを考えるなら、きっと張コウが適任だと思うが、果たして彼にその気があるのかどうか。 「お前がそのままってのは無理か?」 「は?私ですか?無理ですよ、そんなの」 「例えば、も合肥に行かせるとか」 「ご冗談を。そんな事は殿がお許しになりますまい。貴公だってそうでしょう?」 可愛がってる妹分をいつ戦場になるかもしれない場所へとは送り出さないだろうに。 「……まぁな」 「急にどうされました?」 「ん?まぁ……ちょっとな」 昼間の出来事を思うと、離れ離れにするのが可哀相だと思えてしまう。 これが適当な人物ならば別にそうも思わないのだが、どうも自分はに甘いらしい。 「なんとなくな、あいつの教師役などお前以外には想像つかなくてな」 「それは」 「いや、もういい。悪かった、用はそれだけだ、お前も早く休めよ」 夏侯惇は髪を掻きながら立ち上がり、そのまま出て行ってしまった。 「あ……」 再び独りになった部屋で、張遼はしばし立ち尽くしていた。 「…教師役は私も嫌ではありませんでしたよ。できるなら続けていたいとは…思いましたよ」 でも、その前に自分は曹操に仕える武将だ。 「明日で最後、ですか…」 最後に何を教えてやろう? 何が一番彼女にとって良いであろうか? できることなら、楽しい授業にしたいものだ。 そう思いながら、張遼は執務室を後にした。 翌日。 はいつもより少し早めに目が覚めた。 今日で最後の授業だから。 泣かずに我慢できるだろうか? 昨日大泣きしたあと、急いで甄姫のもとに駆け込んだ。 目を腫らしたままで最後の授業を受けたくないから、不自然に見えないようにと、甄姫に頼んで色々してもらった。 「よし」 全ての仕度を終えて、勉強部屋へと向かう。 授業開始5分前に行って、席につくようにしたい。 「でも、いっつも遼さんの方が早く来てるんだよね」 きっちりと授業の用意を終わらせて。 扉を開ければ、にっこり笑って『おはようございます、殿。今日も真面目に頑張りましょうね』って出迎えてくれるのだ。 「おはよう、遼さん…あれ?」 扉を開け、中に入るも、部屋は薄暗く張遼の姿はない。 「遼さん、まだ来てないの?」 今日の授業は中止? 執務の方が忙しいからとか? そんな終わり方は嫌だなと思う。 とりあえず、机に書物を置く。 すると、入り口から張遼の声がした。 何も持たずに入ってきた。 「おや、早いですね。殿」 「あ、お、おはよう遼さん」 「はい、おはようございます、殿」 「今日もよろしくお願いします」 「はい。それでは参りましょうか」 「は?」 「今日の授業は外でしましょう。前に約束したでしょう?」 そう言って、張遼は手を差し伸べてくれた。 最後の授業はどんなですかね?
04/08/31
13/04/26再UP
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