|
せかいでひとつのたからもの。
「おい、大丈夫か?」 「は、はい。あ、ありがとう、ございます」 か細い声で礼を言われた。 自分の風体を見れば、怖がられても仕方ないとは思う。 「……少し驚いてしまったものですから」 「へぇ」 一体何に? 自分の身体に刻み込まれたモノを見てですか? 言葉にはしないで問いかける。 どうせ言ってもしょうがない。 問うても、本当のことなど言わないだろう。 でも彼女の答えはまったく違うものだった。 「空って青いのですね」 「そうだな……って、は?」 「不思議なものですね、屋敷にいる時より今のほうがとても澄んで見えます」 「………そ、そりゃあ良かったな」 変な女。 ほんの少し前までは特にひっかかるモノなどなかった。 でも、急に自分の領域に彼女が入り込んだ。 「あ〜なんつーか、もしかしてアンタ良いとこのお嬢さんで、今まで屋敷から出たことないってことか?」 大事に大事に育てられた箱入り娘。 きっと箸より重いものは持った事がないとかって言う。 でも彼女は笑顔で否定する。 「違いますよ。そのようなことありません。普段から普通に外に出歩いていますよ」 「あ、そう」 やっぱり変な女。 意味わかんねー。 じゃあ、なんで空が青いとか言うんだよ。 空なんてどこから見ても同じじゃねーか。 髪を軽く掻きながら、彼はそう思った。 「とりあえず、大丈夫なら俺行くわ。気をつけて帰れよ」 「はい。ありがとうございました」 彼は彼女に背を向けて歩き出す。 彼女は彼に向かって深々と頭を下げる。 「あ、お名前…」 ハッと気付いて彼女は頭を上げた。 呼び止めようかとした時、自分よりも数倍大きい声にかき消されてしまった。 「兄貴ー!」 「おぅ、どうした」 「どうしたじゃないっすよ。俺らに稽古をつけてくれるって言ったじゃないっすか」 「そうだったな、悪ぃ。じゃあやるか」 彼に駆け寄る若い男が数人。 兄貴と呼ぶものの見た感じ兄弟には見えない。 でも表情を見ただけで、彼がとても慕われているのに気付いた。 「また…お会いできた時に」 邪魔をしてはいけない。 いや、邪魔をと言う以前に彼らの空間に入り込む隙間がない。 ほんの少し前に出会った自分とでは。 だから、再び会えた時に。 その時に名前を聴くとしよう。 再び会えることを願って。 *** 「」 「あら、兄上。お早いお帰りですね」 が屋敷に戻ると、兄凌統が不機嫌な顔で横になっていた。 「具合でも悪いのですか?」 「悪かないさ…」 「そうですか」 それ以上は聞かない。 聞いたところで兄の機嫌は良くはならない。 寧ろ悪くなる。 (大方の予想はつきますし…) 兄は“誰か”のことで毎日腹をたてることがある。 誰かと言うのはにはわからない。 最初の頃は聞こうとしても。 「お前が知る必要ない」 の一点張り。 それでもしつこく聞き出そうとするものならば。 「あんな奴のことをお前が知ってもしょうがない」 って言われる。 名前も知らない誰かさんと、兄は犬猿の仲のようで。 兄の不機嫌な素らしい。 陸遜が来た時に、その相手のことなどを尋ねてみたが 「に言うな。口にすると腐る」 とまで言い切った。 酷い言われようだ。 いったい、その人は兄に何をしたのだろうか? 聞いてもきっと答えてはくれないようだから止めておこう。 無駄。 「、お前どこに行ってた?」 「あら、一々兄上に言わないといけないのですか?」 そこまで自分は子どもではない。 「馬鹿。普通にどこまで出かけたか聞いただけだろ?」 「ならば馬鹿は余計です」 「そりゃ、悪かった」 むくりと起き上がる凌統。 はお茶を淹れ始める。 「買い物に行ってきたのですよ」 「買い物…の割には手ぶらだったな」 「あ!」 茶を注ぐ手を止める。 買い物に出たのはいいが、買わずに戻ってきたのだ。 買わずにと言うか、先ほどの出来事があってすっかり忘れていたのだ。 は茶碗を凌統の前に置き、慌てて踵を返す。 「おい」 「買いに行ってきます。あれがなくては夕餉の準備ができません」 凌統は淹れてもらったお茶をぐいっと飲み干す。 「俺が行く」 「いいえ、私が参ります」 「行ってやるって言うのに、何故に拒否するんだ、お前は…」 「兄上はお疲れでしょう?ゆっくり休んでください」 「そんなに疲れていないさ、だから俺が行く」 「私が」 凌統は後頭部を掻いた。 「じゃあ一緒に行くか。それならいいだろ?」 「はい」 兄妹二人で出かけるのは久しぶりだと思った。 父が戦で亡くなってから、兄はとても忙しそうだったし。 他愛もない会話しながら街中を歩くと言うものいいものだ。 「それで、なんで買い物を忘れて戻ってくるわけ?」 「そ、それは〜」 言ったら、凌統は心配するかな? 阿呆と呆れられてしまうだろうか? 「?」 「あ、ちょっと人様に絡まれまして」 「はぁ!?どこのどいつだ!」 「知りません。でも、大丈夫でしたよ?怪我もなく」 「怪我なんかしたら、そいつをボコボコにして長江に流してやるところだ」 「兄上、発言が物騒です」 の落ち着いた態度に凌統は頭痛がする。 「私自身には何もありませんでした」 ニコリと笑む。 言いたいことは山のようにあるが凌統は仕方ないと諦める。 (助けてもらいましたから…) が買い物へと街に出た時、どこからやってきたのだろうか? あまりこの辺りでは見かけない破落戸らに囲まれてしまった。 「姉ちゃんが弁償してくれんのかい?」 「弁償をするほどのことなのですか?」 「人の物を壊しておいてよくいえるなぁ」 「私にはご自分で落とされたように見えましたけど」 歩いていたに破落戸の一人がぶつかった。 ぶつかってきたように見えた。 避けようと思った思ったのに、奴の身体はに向かってきたのだから。 ぶつかった時に手に持っていた箱を落とした。 がしゃんと割れた音がして。 「高かったのによぉ」 「そのような大事なものならば、しっかりと持って前を向いて歩いていれば良かったでしょう!」 自分とぶつかったのが原因かもしれないが、余所見をしていただろう相手にも問題はあると思う。 「おいおい、そっちが悪いのにそんな強気な態度はいけねーなー」 「だ、だから先ほどから!」 「ほら、中は粉々だ。どうしてくれる?」 破落戸は箱の蓋を開けに中身を見せる。 覘くと、箱の中は割れた茶碗のようなものがあった。 「これから、これを大事なお方へ届けなくちゃいけなかったのによぉ」 壊れたものを改めて見せられるとも弱気になってしまう。 弁償すればいいのかなとか。 金を渡すだけでいいのならばと。 でも、心の中で引っかかる。 自分だけが悪いわけじゃないだろうにと。 「まぁいいや。弁償してもらおうか」 破落戸はの腕を掴んだ。 強く逃げられないようにと捕まれた。 「や、止めてください!…あ、兄上」 キュッと目を瞑りながらも兄に助けを求めてしまう。 彼がいれば、こんな奴らお得意の蹴りで蹴散らしてくれるだろうに。 でも、彼はここにはいない。 「格好悪ぃな、お前ら」 「あぁ?」 破落戸たちの間に男が一人割ってはいる。 そして、の腕を掴んでいた男の手を逆に掴んでを解放する。 丁寧に男の腕を捻りあげて。 「い、いたたた!何しやがる」 「何じゃねーだろ、女相手によってたかってよぉ」 額に巻かれた赤い布によって髪が綺麗に立っている。 破落戸よりも引き締まった体格の男がの前にいる。 「だっせー。ぶつかって割れたとか言うけど、最初から割れてたんじゃねーのか?」 「な、なんだと!」 「これはあるお方への大事なもので」 「そのあるお方って誰だよ、名前言ってみろや。天子様への贈り物か?」 「そ、それはだな」 口ごもる男たち。 「ほーら見てみろよ、色と模様があわねぇ、カケラがいっぱいだな」 男がひょいと箱の中に手を入れて茶碗の破片を取り出す。 「あら、本当」 思わずも男の後ろから覗き込んでしまう。 「う、うるせー!とにかく弁償すりゃいいんだよ。お前がこの姉ちゃんの代わりにすんのかよ!」 「誰がするかよ、そんなこと」 「なんだと!」 「だったら引っ込んでろ!」 「俺たちに歯向かうなら容赦はしねーぞ!」 男一人に破落戸が数人。 「へっ、売られた喧嘩は買うぜ?」 相手が刃を見せつけようが、男が気にも留めない。 拳だけであっさりと破落戸たちを蹴散らしていく。 の目にはそれが一瞬の出来事ではなく、ゆっくりと写る。 「く、くそ」 「覚えてろ!」 捨て台詞を吐きながら散っていく男たち。 「おら、忘れ物だ!」 「ぎゃ!」 破落戸の商売道具とも言える箱をそのまま彼らに向かって投げつけた。 余裕綽々の男の後姿には見入ってしまう。 「あんなのうろついてるのかよ、この街はよ…」 軽く服を掃った男はを見た。 目が合った。 そう思った同時に青い空もが目に入った。 パーッと開けたようなそんな感じがした。 「おい、大丈夫か?」 「は、はい。あ、ありがとう、ございます」 自分を助けてくれた男。 ようやく出せた声。 「……少し驚いてしまったものですから」 「へぇ」 目に映った光景に。 でも男の顔は少し冷めていた。 「空って青いのですね」 「そうだな……って、は?」 「不思議なものですね、屋敷にいる時より今のほうがとても澄んで見えます」 「……そ、そりゃあ良かったな」 正直な今の気持ちを答えていた。 でも男には上手く伝わらないようで。 それはそうだ。 自身もそれが何故などと言う理由には気づいていないのだから。 とりあえず、礼を改めて言ってから男は去ってしまった。 名を聞こうにも聞けずじまいで。 また今度会えたらいいなと思った。 「?」 「あら。私ッたら」 凌統に呼ばれて急に現実に戻された。 軽く咳払いする。 「それで?どうしたわけ?」 「あ、通りかかった方に助けていただきました」 「そっか。そりゃ良かったな。その人にも礼を言いたいものだな」 「えぇ。ですが、お名前を聞くのも忘れてしまったので」 「じゃあ、そいつの特徴とかは?」 「そうですねぇ…」 特徴、特徴。 言って凌統の知り合いだったらいいなと思いつつも、にはその特徴がピンと来ない。 「とても格好良い方でした」 「なっ!」 「空がとても似合うような」 「ちょ、ちょっと待て、!そ、その言い方じゃ!」 「今度お会いすることがあったら、改めてお名前を聞いてお礼をしたいですね」 優しく笑む妹の姿に凌統は焦る。 はご近所でも評判のいい娘だ。 を嫁にと言う声はいくらでもあるくらいの自慢の妹だ。 母は数年前に亡くした、父は一年前に亡くなったばかりだ。 兄妹二人になって、改めてこいつは俺が守ってやると、両親の墓前に誓ったばかり。 そんな妹を嫁に出すにはそれ相応の男ではなくてはと思っている。 でも、そんな男は巷には中々おらず。 まぁ、陸遜とか周泰とかならいいかなぁとは思ったりもしたが いや、まだ早いかなと。 それが知らぬ間に出会った男に一目惚れ? 誰かに仕える一般兵士か? 単なる孫呉の地を通りかかった旅人か? 誰だ? 誰だ? つーか、昔は父上か兄上と結婚するとか言ってじゃないか…。 「はい、兄上。ちゃんと持ってくださいね」 「あ?うわっ」 突然両手にずしりと重たいものが。 「せっかく兄上と一緒なのですから、纏めて買ってしまいました」 「そ、そうかい…荷物持ちぐらいお安い御用だ」 妹の“格好いい”と言うだけであれこれ考えてしまった凌統。 本人が目の前に来たらどうなるのだろうか、少し不安になるのだった。 だが。 「何を考え込んでいたのですか?兄上」 「あ、いや…その、お前を助けた人がだな…」 「はい。とても素敵でした」 「そ、そうか」 「でも、本当は兄上が来てくれたら良かったなと思ったのですよ」 呼んでも多分来れないでしょうが、とは言ったが。 「行ってやるさ。お前は大事な妹だからな、俺がいつでも助けてやるよ」 先ほどまでの焦り・不安を取っ払って自信満々に答える凌統なのでした。 甘凌+妹シリーズって奴でした。お世話になっていたあのお方に捧げたものですね。
06/01/04
|