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ほっとけない。
ある日のこと。 甲斐姫が何か珍しいものを見たなぁと思った。 思って、思わずしばらくそれを眺めていた。 氏康の料理番のあとを、犬が1匹ついて歩いていた。 「いつの間に仲良くなったのかしら…」 あの犬は風魔の犬だ、確か。 長く北条家に仕えている忍。風魔一族。その頭領である小太郎のそばにいる犬。 その延長か知らぬが、その犬は氏康にも懐いている。 甲斐姫も嫌いではないが、あまり接することがない。 いつもどこにいるのだろうかと思うくらいで。 こうして、珍しくその二人以外に引っ付いているのが珍しいと思った。 だけど。 「あいつ…何やってんのよ…」 は犬の存在など目に入っていないようで。 嬉しそうに尻尾を振ってを見上げている犬であるが、は一切犬を見ない。 なんとなく犬が可哀相になる。 「。あんた何してんのよ」 甲斐姫はのそばに行く。 「は?」 「あんたのそばにいるその子よ」 甲斐姫が犬を示すと、はあぁと小さく呟いた。 「いつの間に仲良くなったのよ」 仲良くなったとは、さすがに見えないが。あえてそう口にしてみる。 案の定。 からは「別に仲良くない」との答えが返ってくる。 「そう?その割に気に入られたみたいじゃない」 「…一度、食い物あげたくらいだ…」 「あぁ。がご飯をくれる人って認識しちゃったんだ。あんた」 甲斐姫はしゃがみ、犬の頭を撫でた。 普段、氏康と小太郎にしか懐いていないようだったら、唸り声をあげられたらいやだなと思いつつ。 だけど、杞憂で。 犬は甲斐姫が撫でてくれたことが嫌ではなかったらしく大人しい。 「すげぇ。犬まで従順させた」 従順させた覚えはない。軽く撫でただけだ。 この犬が簡単に人に懐くのは確かに珍しいことはであるが。 「何言っているわけ?」 「甲斐は熊も手懐けるから」 「あの子も大人しいわよ」 とある山中にいる熊。 親熊を人間に殺されてしまったのだが、甲斐姫はその子を保護し世話をした。 熊は甲斐姫に懐き今も健在だ。 「そう思うの、甲斐だけだから」 「そうかしら?いい子よ、とっても」 「…熊の親切は有難迷惑って知っているか?」 「はぁ?」 「とある国でのお言葉だ。ま…甲斐の場合、熊だろが虎だろうが、問題ないか」 甲斐姫の口角が引きつる。 あぁ、いつもの嫌味ですか。 「今度にも紹介してあげる。なんならその背に乗せてあげてもいいわよ」 「心の底から遠慮する」 今は熊ではなく、犬だ。 話をすり替えたのはの方なのだが。 「それで?折角懐いてくれた子を無視して何しているのよ、あんたは」 「着いて来い。なんて俺は一言も言ってねぇし」 「…犬嫌い?」 全く目に入れようとしていないから。 いや、まて。 嫌いならば食べ物を与えるなんて真似はしないだろう。 「それとも怖い?」 「それは…熊のことか?甲斐のことか?」 「あんたね…」 違う。 この男。またはぐらかそうとしている。 こうなったら、何が何でも聞いてやる。 「違うでしょ。犬よ、犬。動物嫌いなの?」 「………いや、別に嫌いじゃない」 その間が気になるが、答えてくれただけ満足しよう。 「じゃあ、何よ。可愛いじゃない、犬。撫でてあげれば、この子だって喜ぶのにねぇ」 「……………」 甲斐姫は再び犬の頭を撫でる。 ねぇ?とを見れば、はすっと甲斐姫から、いや、犬から視線を逸らした。 「なんだ。やっぱり怖いんじゃない」 「怖くない」 「じゃあ何よ。はっきりしなさいよ。この子にも失礼よ」 は嘆息する。 頭を二三掻いて。 「動物つーか…犬は昔から好きだよ。けどさ…あんま懐いてほしくない」 「意味わからないわね」 「…懐いたら…情が湧くだろ?」 「…そんなの考えたことないし」 「普通は考えない。捨て犬と出会ったぐらいだろうな、そう考えるのって」 「じゃあいいじゃない。可愛がってあげれば」 「………気が向いたらな…」 は甲斐姫、犬を置いて去ってしまった。 甲斐姫には意味が解らない。 「…本当…意味わからないわよ…バカ…」 なんとなく、 なんとなくだが、甲斐姫の中に寂しさがふっと湧いた。 *** 別の日。あの犬が氏康と一緒にいた。 氏康の私室。城下を一望できる室で。 甲斐姫は父の使いで、氏康に目通りした。 氏康のそばで、犬が気持ちよさそうに寝ていた。 用件が終わればすぐに退室しようと思っていたのだが、なんとなくその犬が気になって。 「ん?どうした坊主」 「…だから坊主じゃないですってば、あたしは…」 「そうかい。だが、何かあったのか?」 「あたしに何かあったわけじゃないんですけど…ただ、あいつが…」 「あいつ?」 甲斐姫は先日、とその犬の話をした。 氏康は茶化すことなく、ただ黙って甲斐姫の話を聞いていた。 聞き終えた時、咥えていた煙管を口から離した。 「あの小童はまだそんな事気にしてんのか…」 「え?」 ため息とともに紫煙を吐き出した氏康。 「あいつは…いまだに人に対し壁を作っていやがる。こいつに対してもその延長だ」 こいつと、氏康は犬の頭に手を置いた。 「だが、まぁ…坊主に対してはそうじゃないようなのは結構なことだ」 「あ、あたしは別に…」 坊主と言われても否定するより、とのことを言われて思わず照れた。 だけど、いつだったか。くのいちも似たような事を言っていた。 「お館様…それって、あいつの隠し事と関係しているんですか?」 「隠し事ねぇ…」 の隠し事。 隠すと言うより、話さない事。 甲斐姫はと軽口は言い合える仲だと思うが、深く彼の内面に踏み込んだ事はない。 何か隠していると思っているが、いつか話してくれればいいなと思っていた。 だけど、時折、自分には意味の分からない言葉を言われてなんとなく寂しかった。 がどこの誰で、どういう経緯で氏康の料理番をしているのかなど知らない。 知る必要はないだろうと思っていたけど。 「俺はな、あいつに根を張らせてあげてぇんだ」 「はい?」 「………坊主。あいつは根なし草だ。今のうちになんとか根を張らせてやれ」 「お館様…?」 「じゃねぇと、坊主が寂しい思いをするぞ」 氏康はごろりと横になった。 それ以上は語る気がないらしい。 甲斐姫は仕方なく、退出を決めた。 「坊主」 室を出る際に呼び止められた。 一言。 「に…あとでいい。俺んとこに顔を出せと伝えておけ」 「…はい」 氏康の背に向かって頭を下げてから甲斐姫は室を出た。 結果的に、氏康に話しても、何も解決しなかった。 氏康だけのようだ。の隠し事を知っているのは。 そして、に対し、何か思うところがあるらしい。 *** 数刻経ち、と遭遇した甲斐姫。 は甲斐姫の顔を見るなり、舌打ちした。 「な!何よその態度!」 「舌打ちしたくもなる…あんたな…お館様に何言ったんだよ…」 口角が引きつっている。 「な、何も言ってないわよ…ちょっと、この前の、犬のことを聞いてみただけだし」 「余計な事言うなよ…なんか、滅茶苦茶叱られたんだよ」 くそ、あのオッサン。 珍しく。が氏康に文句を言っている。 だけど。 「その割に、あんた嬉しそうね…」 「は?」 「本気で怒っていないってだけ。お館様に叱られて嬉しいじゃないの?本当は」 文句を言っている割に、本気で不機嫌でもないようだし。 「叱られて嬉しいなんて奴いるのかよ」 「いるじゃない。ここに」 「なんで、甲斐の方が不機嫌なんだよ。叱られたの俺だっつーのに…」 「…そうね。なんであたしの方が不機嫌なのかしらね…」 なんとなく、面白くなかった。 きっと、あの日。は氏康に何か言われたんだ。 言われたことが、にしてみれば嫌なことでなく。 叱ってくれる事が無意識で嬉しかったんだ。 まぁそうだ。氏康はみんなの親父のような存在だ。 (なんか…お館様ずるい…) の何もかもを知っているようで。 自分はまだ隠し事をされていると言うのに。 「ねぇ。何かお菓子作ってよ」 「なんだ、急に」 「なんか面白くないから」 「意味わかんねぇ」 「それを言いたいのはあたしの方だわ。だから何か作ってよ」 は頭を掻く。 「わからんが…甲斐の機嫌を損ねたのは俺ってわけだ。仕方ねえ…なんか作ってやるよ」 「本当?ありがとう〜」 調子のいいことで、甲斐姫は素直に喜んだ。 「じゃあ、できたら「いいじゃない、台所行きましょ」 「おい!」 甲斐姫はの背中を押し歩く。 「できるのを待っているのもつまらないから、あんたが料理しているところ見せて貰うわ」 「何勝手な事言ってんだ」 「いいじゃない。別に減るもんじゃないし。味見もあたしがしっかりしてあげるから」 「ったく…」 仕方ないと、それで一応は納得したようだ。 まだに関しては知らない事ばかり。 氏康の言った意味も気になる。 根なし草。 少しだけ。考えてみた。 に根を張らせろ。 氏康はそう言った。 草に根がないとどうなる? 単純に考えると枯れると言う意味だろう。 少しそれとは違うような。 もともと根がない。 そこに落ち着かないと言う意味? は、誰かが見ていないと。 きっと、どこかに行ってしまうんだ。 氏康はがどこから来たのかを知っている。 知っているし、彼の秘めている、隠している事も知っている。 だから、それを取っ払って、根を張らせてあげたいんだ。 だから。 「あたしがめいっぱい、水をあげるわよ」 ここで枯れないように。 根付くように。 「…甲斐?」 「仕方ないからね。あたしは熊でも保護しちゃう奴なんだから」 だから、の事も面倒みてやる。 余計なお世話と言われたとしても。 19/12/31再UP |