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花摘暦
【花霞】 官渡の戦いが始まって、すでに一年が経つ。 夏が来る前に夏侯惇は戦場に出て、また夏が来た。 そして再び冬が訪れた。 広い屋敷で待っているのは正直寂しい。 でも使用人の由科と白玲たちに心配をかけたくないので笑顔を見せる。 由科たちも笑っているのだから。 曹操軍、軍師の中で唯一荀ケだけは官渡へは行かなかった。 なので、荀ケの仕事の邪魔をしない程度に、は城へ行く。 最近思うことがある。 精神的ショックで失った声。 夏侯惇に対する恐怖心などはすでにない。 どちらかかと言えば、想いを寄せている。 最初は不慣れな場所に不安と、出逢いが最悪に近かった為に夏候惇と距離を置いていた。 けど、そうじゃない。 見た目だけで判断してはいけないとわかった。 夏候惇を知るたびに、不安は消え、その距離は縮み。 の胸にほんのり温かい想いを灯されるようになった。 声が出なくても、夏候惇に話は通じるが、なんとなならないものかと考えていた。 その声を再び出す事はできないだろうか? (多分、私次第なんだよね…私の心次第だ) 何よりも、夏侯惇に言葉に出して伝えたい。 の声を失った事を、夏侯惇が一番気にしているのだ。 (戦から帰って来た時、私の声が戻っていたら喜んでくれるかな?) はそう思い始めて、荀ケや医者の下へ通い、声を取り戻そうとする日が始まったのだった。 *** 「殿!無理はいけないですぞ!」 頷く。 「喉まで痛めたら大変でしょう?焦らず、少しずつでいいんですよ」 荀ケに言われるも、声が中々でない事での中で焦りは大きくなる。 精神的なもののはずなのに… 何故でないのだろう? 時代が時代なだけに、レントゲンなどの医療器具はまだまだ発達してない。 手術するにも医者の腕もまだまだだ。 人間の身体に関することなど、今の時代ではまだ知らない事の方が多いのだ。 怪我や病気ではないのだから、自分で何とかするしかないのだ。 「もしかしたら、夏侯惇殿が帰ってきたら声が出るかもしれませんぞ?」 「…??」 「二人で一緒に頑張るとか」 「!!?」 は思いっきりかぶりを振った。 (そんなのできないよ〜それでも声が出なかったら夏侯惇さん、ますます気にしちゃうよ) 「やはり、焦らず行くのが一番ですよ、殿」 それが一番良いのかもしれないとも頷くのだった。 屋敷に戻ってみると、白玲は夕食の支度を由科は薪割りをしていた。 白玲の手伝いをしようかと白玲の下へ行くが、元々大した量を作るわけではないので 手伝わなくてもいいといわれた。 「今日もお疲れでしょう、さん。夕食が出来たらお呼びしますから休んでてくださいね」 と。 自室に戻ろうとした時、夏侯惇の寝室の前で立ち止まった。 主のいない部屋はとても寂しい。 もう一年もこの部屋にいないのだ。 中を覗けば、夏侯惇が書物を読んでる姿が浮かぶ。 それもすぐ消えてしまうのだが… (無事…ですよね?留守番は寂しいです。早く戻ってきてくださいよ) 目頭に熱いものがこみ上げてくる。 口を噤んで必死にそれを押さえるも、限界だった。 は座り込んで泣き出してしまった。 寂しくて、寂しくて。 失った声が出れば、夏侯惇はすぐにでも戦から帰って来るのではないかとどこかで思っていた。 現実はそんなに甘くはない。 声は出ないし、戦は終わらない。 『泣くな、』 夏侯惇が少し困った顔をしながら、頭を撫でてくれる。 何故だか、そんな感じがした。 外は雪が降り始めていた。 *** 「ようやく、許昌が見えてきたぜ、惇兄!」 「あぁ」 曹操を先頭に長い兵の列が許昌へ向っていた。 残念ながら、許昌を出た時に比べ兵の数は減ってしまっているのだが。 官渡の戦いは、袁紹軍の兵糧庫攻めにより曹操軍が勝利した。 華北一帯は曹操の治めるところとなったのだ。 本当はもっと早くに許昌へ戻れるはずだったが、後処理が多く、冬が過ぎ、春になってしまった。 は元気に自分を待っているだろうか? 長い事待たせてしまった。 手紙の一つでも送れば安心しただろうに、余計な心配をかけてしまった気がする。 「女の子は成長が早いって言うから、は綺麗になってるかもな…惇兄、に男が出来てたらどうするよ?」 「え、淵!何を言ってる!!」 「がはは!焦ってるぞ惇兄。大丈夫さ、は惇兄の帰りをちゃんと待ってるからさ」 の事となると、この従兄弟は楽しそうに自分をからかう。 何も言い返せない自分もいるのだが。 城門に着くと、荀ケらが出迎える。 大勢の人が集まっているが、ここからはの姿は見えない。 少し残念な気がするが仕方がない。 城で最終的な確認等をした後、ようやく屋敷へ戻る事が出来た。 「今、戻った!」 「お帰りなさいませ、元譲様!」 使用人たちが主の無事の帰還を喜ぶ。 「長い事、留守にして悪かった…何も変わりはないか?」 「は、はい!皆変わりなく」 屋敷の中を進んでいくが、一向にの姿だけは見当たらない。 「由科、はどうした?」 「あ、あの…」 「に何かあったのか!?」 「いえ!決してそのような事はございません。少し前にお出かけになられたようで」 「そ、そうか。すまん声を上げてしまって」 夏侯惇はあわててしまった自分を恥じる。 一番最初にの顔を見ることが出来なかったのは残念だが、何事も無く暮らしていたのなら問題ない。 そう思いながら腰を落ち着ける。 *** だが、いくら待ってもは帰ってこない。 何処へ行くとは誰も聞いていないため、心配になる。 夜になると、戦の勝利を祝う宴が開かれるため、そっちに出なくてはならない。 少しだけでも卓について話したかったのだが… 「少し出てくる」 夏侯惇は由科にそう言って屋敷を出る。 その辺だと言っても、きっとを探しにでも行くのだろうと、この使用人はわかっていたので 黙って主人を見送った。 戦で街を出た一年前に比べて、許昌は一層繁栄していた。 人々は一先ず終結した戦に安堵し、君主が無事に帰ってきたのを喜んでいるように見える。 中には家族が出兵していたのだろう、泣く者も少なくないが、大半は喜びと嬉しさで騒いでいる。 こんなに人が多く、騒いでいるのだからの姿を見つけるのは容易ではなった。 だが… なんとなく… 『夏侯惇さん』 自分を呼んでいるような声が聞こえる。 耳にと言うか、直接心に響いてくるような。 だから自然と足が動く。 行き先などわからないのに。 気がつけば、街外れに来たようだった。 人気は無く、もう日も落ち始めているため何処と無く寂しさを感じる。 「こんな場所があったのか…ん?」 ある一角だけがほんのり白く輝いて見えるのに気づいた。 そして、そこに膝を抱え座り込んでいるの姿を見つけた。 「!」 夏侯惇は名前を呼ぶのと同時にの下へ駆け寄っていた。 も、その瞬間ぴくりと肩が動いた。 「こんな所で何をしていた?中々屋敷へ戻らないから心配したぞ」 「………」 夏侯惇が声をかけるもは顔を上げない。 「どうした、?」 「……っ…」 「なんだ?」 何の反応も無いに夏侯惇は困ってしまう。 せっかく帰ってきたというのに。 「 」 ふと、耳を疑った。 何か聞こえた気がする。 「…お前……声が…」 ようやく顔を上げたは涙で顔がぐしゃぐしゃになっている。 「なんだ、その顔は・・・」 夏侯惇は苦笑しながら涙を拭ってやる。 の方はそのまま夏侯惇に抱きついた。 「おかえりなさい 夏侯惇さん」 確かに聞こえた。 自分の名を呼ぶ声が。 夏侯惇はしっかりとを抱きとめる。 「あぁ、今戻ったぞ、」 「ずっと、ありがとうって言いたかったです…やっと言えた」 さっき夏侯惇の耳に聞こえた言葉は『ありがとう』だったらしい。 初めて聞くの声に、夏侯惇は胸にこみ上げてくるものがある。 やはり、声を失った事実に夏侯惇自身、心を痛めていたに違いない。 「お前の声が聞けて嬉しいぞ、…本当に良かった…」 「ずっとご迷惑ばかり掛けて…」 「何を言ってる、迷惑など思ってないぞ。さぁ、帰ろう皆にも聞かせてやろう」 「はい」 きっと夏侯淵などは泣いて喜ぶに違いない。 「その…なんだ…」 「はい?」 夏侯惇はを立たせてあげる。 そして彼女に手を差し伸べる。 「これからも、ずっといるがいい。俺のそばに」 「……良いんですか?」 「構わん。いや、手放すつもりは無いぞ」 「じゃあ、ずっと居させて下さいね。夏侯惇さん」 は笑顔で夏侯惇の手をとる。 「元譲でいい」 「…はい、元譲さま」 「なんで『さま』なんだ?」 「なんか急に呼び捨てに出来ないし、元譲さんって呼ぶのなんか変です」 「…まぁ、良いか」 二人は歩き出した。 言葉で伝わらない分、気持ちが伝わっていた。 これから先、言葉で伝えるから二人の間にはすれ違いも起きるかもしれない。 でも、きっと大丈夫。 その分、言葉を伝え想いを伝えるのだから。
終わり
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